『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』 渡辺豊和 著

第一部 山口文象先生の東京弁

お前は誰だ/やめろと言われてやめるバカがあるか/泳げない? 水につかってこい/グロピウス先生!/コルビュジェのところにも行きたかったけどネ/美空ひばりが寄ったョ/ヨシダウソッパチ/女房をつれてこい/子供はかわいくネェのか/何やってんだそれよこせ/近代主義に屋根はないぞ/家具ができなきゃ建築家じゃネェ/全部やりなおしだ/担当なんてない全てお前の責任だ/ヨーロッパ人は足算と引算しかできないから偉大なんだ/日本は戦争責任をおろそかにしているから駄目だ/前川だけが建築家だ/ムラノ?何がいいんだ/シャロンはやるネ/これがオレのオリンピック施設だ/ジェットはいるか/やりたいならやめてからやれ/ベンチュリーを読んだか/事務所をこわすなヨ

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お前は誰だ

 一九六四年当時のRIA大阪事務所は靱本町の一角にあった。RIA自身が設計した八階建て住宅公団のゲタバキ住宅の一階のうすぐらい穴倉にも似たせまい部屋に一〇人ほどのスタッフがたむろしているといった風であった。そこに通うようになって一ヶ月ほどたった昼過ぎである。部屋では確か私一人が図面を書いていた。そこに太黒縁眼鏡をかけた中肉中背の白髪の老紳士が音もなくはいってきた。「こんにちわ」と声をかけられたので気付いたのだが、歯切れのいい東京弁だったのでびっくりしていると私の前にずかずかと進んできてしばらく顔をじいとながめてから「お前は誰だ」高く強い声音でなじる。このとき二五才、まだ気の弱い若者でしかなかった私はどぎまぎしてしまい「今度入れていただいた渡辺豊和といいます」こう答えるのがやっとであった。

 「お前か、植田が勝手に入れた奴は」

 そうなのだ、植田一豊さんが独断で入れてくれたのだ。このとき植田さんに対する感謝の気持ちが更に強くなった。というのもRIAに入れてもらいたくみずしらずの植田さんに直接電話して会ってもらい入所のきっかけをつくってもらった。一九六一年三月福井大学を卒業し大阪の中西六郎建築事務所に入所したが退屈で面白味の全くないところだった。しかし中西六郎さんは戦前も戦前、昭和のはじめ頃早稲田大学を出てパリに渡りアンリ・ソバージュのもとで六年間修業してきたエリートではあった。ウィーンでホフマンの弟子となり修業した上野伊三郎とは同級で帰国後上野らとともにインターナショナル建築会を結成し、若かりし頃は華々しく活躍したとのことであったが私が入所した頃は最晩年、衰えが目立っていた。それでも私は中西さんに可愛がってもらった。それほど忙しい事務所ではなく暇なときは一日中本を読んでいたこともある。そんなとき先輩のスタッフが雑用をいいつけると中西さんは「渡辺君はしなくていい、本を読みつづけなさい」といってくれたりした。ときには大事にしていたと思える蔵書をわざわざ自宅からもってきてポンとおしげもなくくれたこともあった。先輩スタッフはそろってうらやましそうにながめていたことを思い出す。但しスタッフも私をいれて六人きり、伝統はあっても小規模ではあった。但し戦前大阪一のオフィスビルといわれた朝日新聞のビルが竣工したばかりにテナントとして入居したとのこと。この事務所に丁度三年。六四年の三月の末頃だったと思うが中西さんは一ヶ月ばかり入院したと思ったら亡くなってしまった。六八才だった。

 中西建築事務所では合本した「新建築」や「建築文化」をよく読んだ。五〇年代のことがよくわかった。丹下健三、前川国男、白井晟一などがまぶしい存在だった。その中で最も注目したのがRIAの住宅であり植田一豊の文章だった。RIAの作品解説のほとんどが植田の文章であり、名文に思えた。一般に建築家の文章は生硬で概して読みづらいのに植田のものは生動感に溢れしかも極めて思想的であった。私は早くここをやめてRIAに入りたい、入れてもらえまいかと思うようになっていた。この時点ではRIAと山口文象とは全く結びついていず、別の存在と思っていた。ところが創刊まもなかった「建築」がRIA特集をだしそれをよんでRIAの総師が山口文象であることを知った。顔写真も大きくのっていたから先生がすうと音もなく事務所に入ってきて私の目前にあらわれたとき、すぐそれとわかった。だから緊張したのだった。

 私には幸運があった。福井大学の同級生、山崎孝太郎が清水建設に入ったが希望の設計部に所属できず二年たち、そろそろくさりかけていたところRIAに入所できた。学生時代山崎と建築家になると約束した仲だったし最も仲もよかった。この入所には私も少し関わっていた。東京の山崎からどこかいい設計事務所がないかと相談があり、京都タワーの現場に派遣されてそのまま山田守の大阪事務所に勤務していた同級生の崎田に話すと、RIAにつてができるかもしれないとのこと。早速山崎を大阪に呼び段取りよく入所のはこびとなったというわけである。正直なところ、山崎がうらやましかった。こんなにうまく話がとんとん拍子にいくとは思ってもいなかった。今から思うとこれも当然なことだった。山口文象先生は山田守が石本喜久治や堀口捨巳などの東大の同級生たちと分離派建築運動をしはじめたときにしりあい以後弟子に近い関係で親しくしていたらしい。先生はそのとき一七、八だったという。ともあれ崎田はそのつながりを知っていて山崎をRIAに紹介したのだった。

 中西事務所に入所してしばらくしたらつまらなさが身にしみはじめ父にやめたいと手紙をだすと長文の返事があってやめるな、どんなところでも存在価値があるから活動しているのであり、いわんや中西さんは有名な方だというではないか、石の上にも三年のたとえ、なにがなんでも三年は辛抱せよとあった。これではやめるわけにもいかずもんもんとしていると中西さんが丁度三年たったときになくなってしまった。私の行く末を大変心配していたと先輩からきかされたときは涙がとまらなかった。中西さんがなくなってひととおりの整理ができたのを見届け事務所をやめた。それから東京RIAにいた山崎に自分もRIAにいきたいから植田さんに会わせてほしいと頼んだ。このときでも私にはRIA、住宅、植田一豊の連想だった。

 それからまもなく大阪事務所にいた植田さんに会うことができた。建築の図面などは一切持参せず論文を書いてもっていった。一週間ほどたって入所OKの連絡をもらいよろこびいさんでかけつけた。ここではじめて山口先生は胃病で入院中と聞いた。
 のちにわかったことだが植田さんに論文をもっていったのがよかったらしい。今から思うといたって稚拙なのだがどこかに可能性を感じてくれたのに違いない。
 私はいともたやすく植田さんに入所を許可してもらったが他の設計事務所から途中入所などはじめてだとスタッフから聞かされた。実は私の直前に山田守事務所から同じく大阪事務所に入った久米幸一さんがいたのだが入所したばかりでは知る由もなかった。
 それでも半年ほどは臨時雇いであり正式に所員となったのは六五年の一月頃だったと記憶する。植田さんも病床の先生を訪れ私のことを話してはいたであろう。いくら植田さんでも無断で決めたわけではなかろう。










 



ムラノ?何がいいんだ。

 私はRIAに入所して三ヶ月ほどは事務所にいたがその後現場にでた。それは防災街区造成事業、後に民間施工の市街地再開発事業に発展するものであり現場は現在のJR阪和線和泉府中駅前だった。この設計には全く関っていない。図面も描かなかった。それなのに現場に出よとのこと。入所したてで事務所の様子がまだよくわからない時期でありともあれ毎日そこに行った。これは一年強続いた。この仕事が後にRIAが専門とする分野を伐り開くことになるがこの当時この仕事の将来性に明確なヴィジョンを抱いていたのは植田さんだけだった。商業地の再開発とはいえ複雑に入り組んだ土地所有関係を図にするとまさに迷宮の平面図である。道に直接面していない敷地もあり袋小路など当然の状態である。私が入所する直前に竣工したという近鉄奈良線河内小阪駅前の防災ビルはそんな土地所有の迷宮状態をそのまま一階平面図とし、それにその所有者が必要とする階まで勝手気侭に立上げたから文字通りの迷宮建築になっていた。土地所有形態に依拠した一種の自動筆記建築であり平面図をみる限りでは極めてシュールリアリスティックだった。和泉府中計画の場合はあらたに敷地を造成し道路を新規に計画した区画整理事業と防災街区事業を重ねた当時として計画性の高い仕事だった。この担当は福井稔さんである。福井さんは私より三才年長、繊細なセンスの持主、有賀さんに似ていたが有賀さんの方がユニークだったしより論客ではあった。福井さんが力を注いでいたのは街区の風景を形成する壁面意匠のシステムを開発することだった。この計画の規模は当時として大型であり全部で九街区、そのうちRIAの担当は三街区であった。他に二設計事務所、計三チームがそれなりの設計ルールを取り決めて仕事を遂行していた。他の二設計事務所は単に仕事として参加しているに過ぎず、それ以外に明確な意図を持ち合せてはいなかった。

区画整理によって土地所有形態は整然となっていて小阪と違って迷宮状にはなっていない。それでも一つの建物の中には相当多数の家族が集住する。しかも各家族にとってここが住居であり店舗である。要するに集合店舗付住宅が各建物の性格なのである。当然各家族によって住み方も違い建築に対する欲求も違い要求も異なる。下手をするとてんでんバラバラの要求が形となってあらわれ混乱した立面となってしまう。この混乱を避けるために次の方式が考案された。勿論福井さんを中心としてそれはなされた。

 壁面全体を五〇センチのクリアランスの中に納めることとし、壁はシュポレックス板、開口部は原則としてはきだし、その前に幅一メートルほどの縦型プレコンパネルを立ち上げ広い開口はそれを必要なだけ並列する。縦型プレコンパネルの上部には紋章をくり抜いた一メートル角ほどの平版を取付け各家のサインとする。また下部は一メートル角の網入りガラスパネルを手摺りとして使用する。従って開口部の広い家では幅一メートルで見切り壁が連続して立ち上る感じである。紋章のくり抜きパネルがその上部に下部には同大同形のガラスパネルが何枚も並びそれなりのアクセントをなした。建物ができあがってみるとほぼ意図どおりに立面のサイン効果を発揮していて予想された混乱は見事に回避されていた。三設計事務所以外日建設計が住友銀行、村野・森建築事務所が泉州銀行を設計した。RIAが三棟、他二設計事務所が各二棟、日建と村野・森が各一棟、計九街区、九棟で全体をなした。日建の建物はプレコンで正方形開口部を繰返す手堅いものだった。村野・森は竣工まで足場に幔幕が張り巡らされていたためどんな立面か皆目見当がつかなかった。ある日それが一斉にはがされて建物の全体が見えることになった。それを見て驚いた。なんとRIAの立面に合せ縦型開口部をとっているがプレコンではなく現場打でできていてしかも紫色のモザイクタイルが建物全面に張り巡らされている。優美繊細なことこのうえない。

私にはRIAの苦心惨澹も完全に負けてしまって見える。この勝負を見届けて私の現場の仕事は終った。以後長期で現場監理をすることはなかった。私は村野藤吾の力倆のすごさに感嘆していたから先生に和泉府中でのことを話した。その途端先生の眼つきがけわしくなって「ムラノ? 何がいいんだ」の一喝を浴びてしまった。このときも先生と私だけだったからこれはこわかった。それでもそれ以上はその話題に触れずそのときしていた仕事のチェックを受けた。先生の村野に対する憎悪感をまざまざとみた思いであった。先生には村野は器用な商業建築家に過ぎなかったのであろう。社会主義者として許せない存在だったのかもしれない。丹下健三の仕事に対して細々と批判するのに村野は話題にすらしなかった。丹下は近代主義者として同じ土俵に立っている意識はあってその範囲では許容できたのに違いない。しかし村野は堕落していて建築家の風上みにも置けない存在だったらしい。
 先生のこの思いが村野にちゃんと通じていたのを後に実感することになる。

 RIAを辞したばかりの頃である。大阪府建築士会の私と同年代の若い会員から村野藤吾に講演を依頼したいが先生は御高齢、話の引き出し役を引き受けてほしいと要請を受けた。承諾したら村野さんからの指示で車をさしまわすから主要作品をみておけということになり関西だけでなく東京にもいった。ほぼ半年準備をし村野さんと対話する日がきた。老建築家を車座で一〇〇人ほどが囲んで話を聞くのだが引き出し役の役割は結構プレッシャーがかかる。村野さんの開口一番、「建築をイデイオロギーで語るのはよそう」であった。私が山口文象のスタッフだったことを熟知していて先制パンチを浴びせたのだった。それでも私はたじろがなかった。こうくることはあらかじめ予想できていた。そこで私は徹底して表現形式に話題を集中させていくと村野さんは喜んで答えてくれるようになった。それでも村野さんは文象先生にどう思われているかははっきり自覚している様子だった。建築家同志の思想上の闘いである。はっきり目に見える形でバトルがあったわけではないが何らかの形で火が散ることが繰り広げられたのかもしれない。でも私は村野さんの懐の深さに舌を巻く思いだった。私が文象先生のスタッフだったことを知っていて話の引き出し役をさせることに同意したのだ。これ以後村野さんに可愛がられることになるが文象先生を尊敬する気持ちは微動だにしなかった。村野さんもそれを感じていて可愛がってくれた気がする。これは今にして思えることではあるが。

 村野さんの話を聞いたのは京都の都ホテルであって村野さん御自身に佳水園を案内してもらった。柱が細いので質問するとわざわざ柱の裏をみせてここに鉄筋が入っているからできるのだと手で示してくれた。「近代主義」で最も嫌われた虚偽の形式を明らかにして見せる。イデオロギーで建築は語れない。これも近代主義で括れない一方の建築の真実には違いない。渡辺お前はこれからどちらを選ぶのかと問うている気がした。またこのとき村野さんは岩波文庫の「資本論」をみせてくれた。あっちこっちに赤で傍線がひかれていて克明に読んでいるのは一目でわかる。村野さんにすれば山口はこれを読んでいないのかいといいたかったのかもしれない。先生が「資本論」を読んだかどうかは不明である。社会主義者がそのままマルキストかどうかは私にはわからない。
村野藤吾と資本論は建築界では有名過ぎるエピソードである。間違いなく村野は資本論を何度も通読した。これは彼持参の文庫本をみれば了解できる。しかも何らかの仕方でこれを血肉としたではあろう。しかし一方ではこれは村野一流のポーズでもあったのではないかと思うのである。私は父と違い「資本論」を一読もしていないしその解説書だってろくに読んでいない。それでも村野の商業性の勝った意匠は「資本論」の根本思想から導き出されるとはどうしても思えない、文象先生にはそのまやかしが我慢できなかったに違いない。それでも私には村野さんのポーズはいやでない。商業主義の大海を泳ぎきって傑作をつくりだしてやろうとする気迫はやはりなみではない。建築表現者の執念である。その点建築家集団に埋没した観のある文象先生が及ばないところなのではないか。イデオロギーで建築は語れない。これは近代主義からの脱出の糸口にはなりえようしまたなりえた。