インスティテュートが発行した最初の「案内書」
1970年代の“インスティテュート”は、さまざまな人たちとの出会いの場を提供してくれた。1974年4月27日、その日もピーター・アイゼンマンと話し合っていると、のっそりと坊主頭の男が顔を覗かせた。マーロン・ブランドそっくりな風貌で、にこりともせず部屋に入ってきた。アイゼンマンはむっつりとしたまま。男は「俺はチャールズ・グワスメイだよ」と一言。厚い胸板、日焼けした顔、筋骨逞しい体格─この人が後年(2009)癌で亡くなるとは思いもしなかった。─「お前、事務所へ来るだろ?」それだけ言って出て行った。どうやら『a+u』がニューヨークに来ているという情報はここからあちこちに伝えられているらしい。
「お前、ジョン・ヘイダックに会ったか?」「いや、まだだ」「じゃ、今、電話しろ」と受話器を差し出す。受話器の向こうで、ヘイダックのやや甲高い声が聞こえた。万事この調子だった。帰りがけ、隣の部屋から禿げ上がった額に金縁の眼鏡の男が口元に笑みを浮かべて声をかけてきた。マリオ・ガンデルソナスだった。彼はさっと、出版されたばかりの雑誌『オポジションズ(OPPOSITIONS)』の創刊号を私に差し出した。「こっち」と彼が手招く方に向かって別室に入ると、顔中髭だらけの男が笑いながら挨拶してきた。アンソニー・ヴィドラーだった。この日知り合った人たちとは、以来、四半世紀以上もつき合うことになった。
そもそもインスティテュートとは何か? インスティテュートからは何冊も「案内書」が発行されている。(発行年不記載だが、たぶん最初の、総頁17の)「案内書」を見ると、「インティテュートは建築、都市デザイン、都市計画など相互関連する領域を研究、設計、教育する独立法人であり、1967年ニューヨーク州立大学評議会の認定を受けた」と明記されている。
設立の背景には、1967年前半、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された展覧会「新しい都市:建築と都市の再生(The New City: Architecture and Urban Renewal)」があった。そこに参加した建築家のうち、近年の建築教育に不満を抱いた者たちが会合し、グラディエイト・エデュケーション(専門教育)こそ喫緊の課題であると合意した。それがきっかけとなり、ニューヨーク近代美術館の建築・デザイン部や、その他二、三の協会の援助を受けて、「財政的に独立した研究所」が設立された。これがインスティテュートである。
1979年に発行された「案内書」は、全頁マッシモ・ヴィネリによるデザインで、頁数も44と増頁している。そのなかの組織図が示すように、インスティテュートの構成は、「教育活動」「出版などの文化活動」「研究ならびに活動」の三部門に組織化されていた。理事には著名人を何人も抱え、創立会員には、ニューヨークの知的建築家たちが顔をそろえた。おそらくその頃が、インスティテュートの最も活動的な時期だったのではないだろうか。展覧会が開催され、そのたびにカタログが出版された(1976年から1982年までに18冊のカタログが出版された)。そして、機関誌『オポジションズ』が発行された(第1号から第25号までは、コーリン・ロウ、ピーター・アイゼンマン、ケネス・フランプトン、アンソニー・ヴィドラー、ダイアナ・アグレスト、マリオ・ガンデルソナスの編集。第26最終号だけは、ヴィドラー、アグレスト、ガンデルソナス、三人の編集による)。
また、インスティテュートとは独立して、批評雑誌『オクトーバー(OCTOBER:十月)』が、ジェレミー・ギルバート・ロルフ、ロザリンド・クラウス、アネット・マイケルソンの編集により発行された。『オクトーバー』という誌名は、無論、十月革命から来ている。さらに、建築新聞『スカイライン(Skyline)』も発刊された。そこには月々の出来事や、たとえばフランプトンの滞日日記などが掲載された。また、「オポジション叢書」も出版された。刊行されたのは、アラン・コフーン『建築批評集:近代建築と歴史的変化』(Essays in Architectural Criticism: Modern Architecture and Historical Change, 1981)、アルド・ロッシ『学術的自叙伝』(A Scientific Autobiography, 1981)、アドルフ・ロース『虚空に向かって語る』(Spoken into the Void: Collected Essays 1897-1900, 1982)、モイセイ・ギンズブルグ『様式と時代』(Style and Epoch, 1982)、アルド・ロッシ『都市の建築』(The Architecture of the City, 1982)の5冊だった。また、頻繁に公開討論会が開かれた。
最近の研究によると、インスティテュートは、おそらくピーター・アイゼンマンが(独り占めで)コーネル大学とニューヨーク近代美術館の評議員の支持を取りつけ、設立されたのだという。コーネル大学出身であるという背景や、インスティテュートでのアイゼンマンの独占的支配を見るにつけ、けだし、この見方が妥当かもしれない。
と、ややこしいことはともかく、初めてインスティテュートを訪れた時には、生徒らしい人影を見かけることもなく、また、教室らしい部屋もなかった。わずかに展示ホールがあるだけだった。
1974年5月3日、ボストン、ニューヘヴンを回ってニューヨークに戻ってくると、「今日は公開討論会があるから、お前も出ろ」とアイゼンマンが言う。その時の討論会の議題は、ミース・ファン・デル・ローエについてだった。インスティテュートのホールの座席に着くと、周囲にはそれらしい顔ぶれが揃っていた。アーサー・ドレクスラーのしかつめらしい顔や、ミース文庫のルートヴィッヒ・グレイザーの顔も見えた。黒縁の眼鏡に瀟洒な服装の人物はフィリップ・ジョンソンだろう。当然コーリン・ロウもいた。(つづく)
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