『近代建築』(1960年11月号, 特集=グループメタボリズム, 近代建築社)
1952年、早稲田大学第一理工学部建築学科に思いがけず入学した。映画監督志望だったのに、父親から正業に就けと言われて受験した。浪人中、雑誌『美術手帖』で読んだ二つの論文のせいだろう。ひとつは瀧口修造「ライトの建築」、もうひとつは今井兼次「ル・コルビュジェとその絵画」。白雲たなびくタリアセンの写真と、左手に色鉛筆を握ってスケッチするル・コルビュジエの写真が脳裡に残った。
入学してみると、「建築家になりたくて入った」という友人がいて、そのなかに後に有名になった内井昭蔵君や竹山実君がいた。ひどく心許なくなった。そのうえ「犬小屋を設計せよ」という設計課題を見てぎょっとした。なにやら違和感を抱いた。友人が提出した模型を見ると、「たわし」をほどいて藁屋根に葺き上げている。それを見て、こりゃ駄目だと思った。担任の松井源吾助教授に相談に行った。
中野の公団住宅の一室で、浴衣姿の松井さんは一升瓶を前に、「評論だって? 建築って、金を儲けるものだぞ」と困惑した顔だった。それでも、「じゃ、この人に会ってみろ」と、当時、大妻女子大の教授だった久保喜勇さんの名前を挙げた。田端のお宅に伺うと、青い髭面の大男が現れた。そして、自作の評論を掲載した小冊子を見せて、やにわに「君、チェルヌイシェフスキーは読んだか」と聞いてきた。やむなく、ギーディオンは無論のこと、級友の根本衛君から貰い受けた『建築工芸アイシーオール』に連載されていた、グスタフ・アドルフ・プラッツの『近代建築史(Die Baukunst der neuesten Zeit)』(川喜田煉七郎訳)、さらに『建築新潮』に連載されたアドルフ・ベーネの『現代の目的建築(Der modern Zweckbau, 1926)』(仲田定之助、川喜田煉七郎合訳)等々を乱読し、文学部の友人たちと詩の同人誌『オゾーン』をつくった(2号まで出版された)。
構内を歩いていたら、「デザイン研究会」の部員募集の張り紙をたまたま見つけた。部室に行ってみることにした。心理学を出て、美術史を専攻しているという発起人の小林邦雄君に出会った。色白で物静かな男で、妙に説得力があった。桑沢デザイン研究所にも通っていて、学外にも知人が多かった。後年、彼は大日本印刷に入社し、大阪に転勤、日本板硝子の企業誌『Space Modulator』(1960年創刊)を企画し、成功させた。後年、あの誌名は君がつけたんだよと彼に言われたが、まったく忘れていた。
ある日、彼から突然、浜口隆一に会いに行こうと誘われた。青山通り裏にある木造の浜口邸を訪れ、浜口さんに会った。一見、ひよわそうに見えたが、その頃、浜口さんはバイクを乗り回し、頭髪を短く刈っていた。会うなり、長髪の私を見て「君、あたまを刈りなさい」と言った。
小林君は、今度は川添登に会いに行こうと言う。二人で巣鴨の川添邸へ行った。大きな門の脇に離れがあり、川添登さんはそこで書棚を背にして机の前に端座していた。後ろの壁には、一本のドーリア式の柱のデッサンが額に入って飾られていた。言うまでもなく白井晟一さんのスケッチで『新建築』の表紙になったものだ。その隣に間もなく夫人になられる長江康子さんが座っていた。川添さんはよく通る声でひっきりなしに喋った。
翌年の1956年、父が事故死、今和次郎先生に提出するつもりだった卒業論文は、とうとう書けなかった。それ以後、“弟子第一号”などと称して川添邸に昼夜出入りし、参考文献を翻訳したり川添さんのお喋りの聞き役を務めた。やがて川添さんの口利きで『近代建築』の編集を手伝うことになった。美術出版社から出版されていた『リビングデザイン』の編集長だった康子夫人から、レイアウトや校正の仕方などを手厳しく教えられた。康子夫人は名取洋之助の薫陶を受けた方だと聞いた。最初の編集の仕事は、級友竹山実君の処女作の住宅だった。『近代建築』は、「新建築問題」後の宮嶋圀夫さんが編集長だったが病気がちだった。一時、栗田勇さんも宮嶋さんのつてで現れたが、片桐軍社長とは馬が合わなかった。栗田さんは当時無名で、私を従えて新宿の街を飲み歩いた。
1958年、白井晟一さんの善照寺が完成した。翌年、『近代建築』5月号で特集することになった。詩人の関根弘さんをたずねたり、彫刻家の流政之さんに会ったり、二人を善照寺へ案内したりした。川添さんと江古田の白井邸へ同行した。有名な「滴々居」である。「君、お茶を飲むな。あの家には便所がないからな」と川添さんが言った。白井さんは和服姿で顎髭を生やしていた。「富士」という高級煙草を吸いながら、夕方から明け方まで話をされた。時々、白井さんと目が合うとなにやら胸がときめいた。それからひとりで伺うことになった。
ある時、夏の暑い盛りに伺うと、ガラリ戸を細めに明けた室内に白井さんは座って、「君、蕎麦を食うか」と言う。出された盛り蕎麦を白井さんはおそろしい勢いで平らげた。喋るのは、もっぱらこちらだったが、「そう、そう」と頷きながら「建築の問題は、やはり、人間だよ」と気負い込むように言い、帰る間際、「いろいろ言ったが、今日の話、わかったかな?」と確かめられた。その頃、白井さんには内弟子の中村さんという人がいて、赤い鼻緒の冷や飯草履を履いていた。(つづく)
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