序・ピラネージとは誰か

 ピラネージ(Giovanni Battista Piranesi 1720-1778)の『建築に関する所感』は、二人の人物プロトピロとディダスカロの対話形式による建築論である。一七六五年に出版されたこの対話篇は、ピラネージの当時の考え方を示す点で注目される。ディダスカロはピラネージの友人、プロトピロは当時の有力な建築論の代弁者と設定されている。最も有名な『牢獄』などで示したように、ピラネージが単に奇想・幻想の版画家とするのであれば、彼が建築論を書いた意味も、そして私たちがそれを採り上げる意味もない。むしろこの建築論に触れることで、本来のピラネージが私たちの前に登場するといっても過言ではない。
 彼は一七二〇年ヴェネツィア対岸の都市メストレ近郊のモリニャーノに生まれ、ヴェネツィアでの初期修業を経て、一七四〇年始めてローマを訪れ、早くも一七四三年には、版画集『建築と透視画法第一巻』をローマで出版している。その後しばらくヴェネツィアへ戻るが、一七四四年以後ローマに住み、活動を続けることになる。一七四五年には『古代および近代のローマの景観』、一七四八年には『ローマの景観』、『共和制および帝政初期のローマの遺跡』を刊行し、一七五〇年頃には『牢獄』初版出版、一七五六年には『ローマの古代遺跡』四巻を同時刊行している。翌一七五七年には考古学的活動が評価されてロンドンの「好古家協会名誉会員」に推挙され、一七六一年、『古代ローマ人の偉大さと建築について』を刊行した。
 けれども、ピラネージは自分が版画家、考古学者であると思っていたわけではない。彼は自らをヴェネツィア建築家と署名するのが常であって、建築家として生きることをめざしていた。ピラネージは想像力豊かな版画家であり、彼の版画は、奇想や幻想を含み、透視画法的にも大胆で演劇的な作品を生み出した。彼が得意としたローマの地誌的な景観版画は、大旅行(グランツール)の時代に、ローマの思い出の品、おみやげ(スーヴニール)としてよく売れ、文字通りビジネスとして成り立っていた。そしてローマの古代遺跡に関する調査の成果を版画作品によって公表し、考古学的研究の第一人者として評価されるようになった。こうしたピラネージの一連の活動は、決してバラバラなことではない。彼は、本源的な意味で「建築家」であった。すなわち、建築家とは、狭い意味では建築を設計し建てる人であるが、さらに言うなら、彼の時代と環境をより良くすることを試み、現代の創造性についてつねに考えつづける人物のことである。
 ピラネージが興味深い対話篇を著した直接の目的は、当時の建築論に一石を投じるためであった。要約するなら、ギリシア建築のみならず、ウィトルウィウスの様式やパラディオの古典主義様式をも拒否し、ギリシア、ウィトルウィウスの崇拝者、厳格主義者、純粋主義者が言う建築の法則に反論する。その法則の純粋運用が、建築存在自体の消去をもたらしてしまうことを論理的に指摘し、その上で、創造性の問題の核心に触れる議論を展開したのが彼の対話編なのである。
 対話篇が書かれた動機はいくつかある。第一は、彼が信奉してやまなかった古代ローマ建築の評価がゆらぎ、建築はギリシア文明の産物であること、ローマ建築はギリシア建築の模倣であり衰退した形にすぎないという主張が、ヨーロッパの中に影響をおよぼした。ピラネージは当時、トスカナ地方で盛んに発掘が行われていたエトルリア文明をそこに介在させて、真っ向からこれに反論を試みるが、打ち勝つことはできなかった。
 第二に、設計の機会がピラネージにようやく訪れたのは、『建築に関する所感』が発表される前の年のことであった。すなわち、一七六四年、アヴェンティーノの丘に位置するマルタ騎士団修道院本部のサンタ・マリア・デル・プリオラート聖堂の設計およびその前庭であるマルタ騎士団広場の仕事である。
 第三として、それより前、たとえば一七六二年の『カンポ・マルツィオ』のように、復元というよりはるかに進めて、古代ローマ都市の幻想的想像図を描いてみせた。『牢獄』第二版も同じ頃の仕事である。
 こうして現代の創造へと彼の中心課題がシフトしていくまさしく過渡的な状況で彼の対話篇が書かれた点に注目する必要がある。それは、一般に彼がみなされていた版画家、考古学者から、彼本来の建築家としてのピラネージへの復帰宣言ととれるだろう。

長尾重武

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