変容と持続をつがえる力 —『近世建築論集』によせて
言葉、あるいは文章が、一種の構築された表現だとすると、恐らく無意識の内にそこにある構築性を時折感じているのだと思います。本を読んでいる際の視界が開けるような言葉との出会いが、そのことを納得させます。その言葉は、感情をゆさぶるとかいった類のものでは決してなく、頭の中でこれまでもやもやとちりばめられていた思考の片鱗が、一瞬組み立てられたかのように見せてくれる、そんな類のものであります。その刹那の体験に、自分が考えたかったのはこのことではないかと思うと同時に、自分では開き得なかった未熟さを痛感することができます。そして、こういう言葉こそ、心に刻みつけて、いつか自分の言葉にしなければならないものであると思っています。
かつて、中谷さんによる『国学・明治・建築家』を読んだ後に、心の中をめぐっていたものは、「すべてのものを表現されたものとしてみるしかない」という言葉でした。最後の方だと記憶しており、あらためて確認してみると、「『世界をなるべく表現されたものとして見る』、この前提にボクたちは再びたちかえらなければならない。」という一文に、論文の最後の段落で再会することができました。恥ずかしながら記憶の方は一語一句違わずとはいかなかったのですが、この言葉はその後の僕の「もの」をみる姿勢を決定づけています。
ものはもの自体としては存在せず、何らかの意志を表象した「もの」として存在している。このことを真実と感じているのは、それが、建築の分野にいる者としての必然的な感情というよりも、むしろ、なんとしてもそう思いたく、そうでなければ、なんだか建築は悲しい、という感情によっている気がします。
それ故、その言葉どおり、ものの背後に潜み、表現を実現に至らしめる観念的な部分、すなわち、思考の軌跡を召還することによって、建築論が立ち上がってくる中谷さんの作品は、いつも刺激的です。こうして立ち上げられた建築論群であるが故に、近世、近代、現代と思考の歴史を追ってみたならば、そこで初めて、「本居的な自然の呪縛」と「篤胤的なそれを断ち切る跳躍的振る舞い」が、日本近代建築の根底に横たわっている現場に、僕らは出くわすことができたのだと思います。表現された「もの」から立ち上げられた思考史・建築論史は、「建築論」として発せられた建築論を、歴史的に布置していく作業とは、全く質の異なるものです。「もの」から立ち上げられた建築論は、単なる過去の事物としてあるのではなく、過去と現在という異文化のコミュニケーションを可能にする、さながら『近世建築論』に登場する「白いくりがた」のような抽象度を持ったものとして感じられます。
そのようにみてくると、以前に中谷さんに質問した、「どうして規矩術を」という質問が、愚問であったと恥じ入ります。規矩術への展開こそ、表現としてみることを排除され、物質的なものとしてみることを強いられてきた「もの」たちから、表現を奪還し、建築論を立ち上げる作業に他ならないと思われるからです。
物質的なものを表現としてみることの実践。その結実が『近世建築論集』である。その思いは、「辞書・言葉」が最終章の焦点となり、中村達太郎の『建築辞彙』に関する論考が最後の締めとされていることによって強まります。
ある一定の契約関係において配置された言葉の羅列。そんな辞書の表現にも構築への意志が潜んでいる。その大前提に立ち返ることで『近世建築論集』は完結するのですが、そうした立ち返りが、極めて困難な作業であることは既に体験済みです。研究室で、『建築辞彙』の改訂版である『日本建築辞彙』を見つけ、それをめくったとき、その辞書は表現として見られることに対して全く隙を与えてくれていないように感じたからです。しかしながら、実際それを読み解くことで召還された中村の思考からは、彼以後の世代が行った近世を疎外していく態度ではなく、近世と近代を同じ土俵に載せることを可能にする視点の存在が明らかになります。そんな可能性としての近世建築論を、一旦、目の当たりにしてしまったならば、気持ちとしては、表現としてみることの実現を志向せざるを得ません。
文字と言葉が違うことに気づくことによって、中村は近代と近世の亀裂を保存できた。文字は流通形態であり、言葉は解釈である。
このギャップを巡って、中村の思考が読み解かれていくにつれ、逆に中村との差異として、以後の世代の思考が明るみに出てきているのを感じます。つまり、中村の態度とは対極的に、近世の豊穣さが流通させたもはや起源を残さないくらい変質してしまった大工界の通俗的な言葉、そんな説明づけられないような部分を「伝統」として押しのけ、残存しているそれらの末裔を「亜流」として位置付けていく所作として、日本近代の近世に対する構図が、最後に浮き彫りにされ、幕を閉じます。
『近世建築論集』には、「近代建築論」を同じ土俵に引き込み、近世と近代の狭間に漂う建築論の亀裂の保存が画されているように思います。つまり、近世と近代をつがえる力の存在をそこに見るのです。
「亜流」として片づけ、思考を停止しないことから、近世建築論は立ち上がる。亜流の誕生には理由がある。それは他者と出会うからである。閉じられた世界の中には亜流を発現させるシステムは存在しない。亜流の発現とは、多くの異文化とのコミュニケーションが行われてきた証である。そこの思考をみることでしか、異文化コミュニケーションの新たな方法は模索され得ないのではないか。
そう述べられているように思われてなりません。
「白いくりがた」では、「様式」と「解釈」との関係から、日本近代では単一的に「擬」のカテゴリー=「亜流」へと押し込められてしまったものに、異文化コミュニケーションの2種類の意味が見いだされています。一つは、自らが抱える既存の体系=「かた」から積極的に他者の方に近づいていく姿勢、すなわち「かた」からの「自由さ」によって、他者を飲み込んでしまえるより抽象度の高い「かた」へと変質したことで生じた「擬」。他方、他者を自らの体系に引き込み、それを「ひながた」として既存体系に吸収し、自らの「かた」の版図を拡げていったことで生じた「擬」。そのどちらも、「擬」を他者と出会った者の主体的な表現として見ることによって顕わになったのだと感じられます。
さらに、「亜流」を発現させるこの2種類のシステムの存在は、圧倒的な質・量の資料とともに「規と矩」において確たるものとして示されます。すなわち、規矩術という技術もまた主体的な表現であり、多くの他者と出会いながら変質してきたのだと明らかにされるにしたがって、「内的技術」と「外的技術」という技術の全貌が見えてきます。そして最後にスケッチされた規矩術衰退の過程によって、規矩術という技術のすべてを外部として押しのけ、思考停止に追い込んでいく日本近代の姿に僕らは再び出会います。
すべての章を通過すると、「かた」=意匠的なもの、「規と矩」=技術的なもの、「器」=構法的なもの、そんなイメージが湧き、そのすべてに対して表現として見ることが可能なのだということを知り得ます。そして、建築という土俵の中では、これら3つは三位一体で共時的なものであるため、今や建築は、表現としての事物の幾多の重なりとして、その姿を示します。こんな建築に対して、様々な角度から発見される表現としての事物を、まずは水平的な歴史変遷として実証的に布置していき、そこから次に事物という表現にこびりついた思考を垂直に立ち上げ、最後にそれを歴史的に水平に貫く、僕はこの本の題名が、近世建築史集や近代建築史集でなく、『近世建築論集』とされる必然が、この壮大な作法の中にあると考えています。『国学・明治・建築家』の帯には「実験的」という文字が添えられていましたが、それは端的にこのことを指し示しているように思えます。すなわち、実証的で始められた物語は、実験的に描かれることで実践的になる、それが歴史なのですよと。
ここまでくると刺激的を通り越して、恐ろしく、そして不安になる。そんな歴史が書けるのかと。しかし、まずは『近世建築論集』が明らかにしてくれていることを読み解くことからはじめなければと思う。
主流・亜流をつくり出す枠組みを取っ払い、「変」に敏感たれ。
少なくともこのことは言われているような気がするのです。何かが変わったように見えるということは、その裏の隠れた観念がくすぐられている証拠である。そして、そんな事物の総体を見るならば、「変」は何かを「持続」させようとする行為の現れなのではないかと。
近世と近代は鏡像関係である。第1章で述べられているように近世という鋳型は、近代を彩るために用いられてきた。そんな鋳型の話に始まり、日本近代の構造が暴露され、他者との出会いの中で近世がみせた豊かな変質が捉えられると、近世を疎外したことで最終的に始まった近代の変化の方にも、その意義が逆照射されているのに、僕らは何度か出会います。明治という時代の中で、自らの既存の「かた」に執着をみせつつも変質していった過程を知っている今となっては、もう一方の日本近代の断絶的な変化の身振りの方にも、決してカラッとしていない粘着質系の観念がへばりついているはずだと思えるようになります。近代日本の変化の身振りは、一体どんな持続をその背後に抱えていたのだろうかと。
異文化コミュニケーションという所に光をあてた時、その照射は決して日本近代にとどまらないことは明らかです。それは、ある場所に特化した問題でもなければ、ある時間に特化した問題でもなく、他者との出会いという意味においては、ほぼすべての人間に訪れる普遍的な事柄だと感じます。そうであれば、コミュニケーションの結果として、様々な場所で多くの表現としての事物が生み出されていることになります。とすれば、まずはそれらを発見し、整理し、そしてやっぱり最後に垂直に建築論を立ち上げたい。そんな目標を抱くに至ります。
そのための第一歩となる発見を支えるもの、「変」に敏感になる作法として、建築がどこからくるのかを考えなければならないと思っています。「建築は常識の延長である。」これは、そうした模索をクリアにしてくれる同時に、ヤラレタと痛感させられた、わが師・藤森照信の言葉です。人がフッと建築という表現に立ち向かったその第1歩にこびりついている思考、「縄文建築論」と言い得るようなものを立ち上げているのではないか、そんなようなことを常日頃、僕は先生に感じながら、その大きな背中をみているのですが、この言葉にも、本来的に建築が持つ観念的な部分を思い起こさせる力があります。僕にとって、常識は客観的な事物ではなく、主体的に保持されたものであり、他者との出会いによって常に流転していくものです。さらに、その流転の様相は、万物が流転するのと同様に、恐らくゆっくりとどこかねちねちとした粘質系のものであって、そんな常識から出てくるものだからこそ、やはり建築は表現なのだという思いを強くします。
建築を支えるマントル対流のような常識の変化を感じ取ること、その実践と有効性は、『近世建築論集』の至るところに描かれています。それ故、僕にとってこの本は、表現としての事物発見の旅の途上、「変」に鈍感にならぬよう、幾度と立ち返るべきバイブルであることは間違いありません。
旅は、小脇に書を携えて。たまには「書を捨てず」に街にでてもいいと思う。
※掲載にあたって 当文章は、著者に投函した手紙をもとにして書いたもので、手紙という形態をなるべく保存するようにしました。語調の不一致や抽象的すぎる表現が含まれ明快ではないという点は、多分に筆者の能力不足によりますが、手紙ゆえの筆者の悩みや戸惑いといった個人的感情のあらわれでもありますので御考慮下さい。
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